2013/12/09 18:12:50
今年も師走。10月のアイアンマン世界選手権は遠い昔のようです。仲間のハワイレースレポートを読みながら、自分も書かなければと思いつつ、時間が無い、筆も進まない・・・あっという間に1ヶ月以上経った。うう、まずい・・。そこで、開き直って、これまでの自分のトライアスロンの道のりを振り返りをすることにしました(さらに時間がかかり、悪循環になってしまったけど)
【注意!】ダラダラと長いです。ヒマな時に読んでください。
さて、何故、振り返ろうと思ったのか?キッカケは二つあります。
一つ目のキッカケは、今年で13回目の出場のハワイでのこと。スタート後、スイムのバトルを抜け、綺麗な海を泳ぎながら底を見たときに、「面倒くさ、飽きた」という感情が湧き上がってきました。これはトライアスロンを始めてから一度もなかったこと。しかも、トライアスロンの聖地=コナの海で・・。自分でもビックリ。一体何なの?ここは、初心に戻るために「振り返り」が必要でしょう。
その後のレース展開をちょっとだけ記しておきましょう。
10時間弱のレース中、手を抜いたわけでもないのですが、淡々とスイム、バイクを終えました。そして、ラン7kくらいで、先行し折り返してくる御大とすれ違ったときに突然スイッチが入り、並走していたオーストラリア人女子と23kまできっちり4:30/kペースで並走。ランでは力を出し切ることができました。トータルで9時間58分とサブ10ですが、年代別59位、ここでは限界まで追い込めないと上には行けませんね。
え、今年のレポートそれだけ?と言われそうですが、以上です!(笑)

二つ目のキッカケは、少し前にチームTRIONのミキティーGMからお願いされたこと。「ズバリ、‘川島隆一物語’を書いて欲しい!トライアスロン始めるきっかけから、ハワイ常連になるまでの波乱万丈のアスリート人生を綴って欲しい」と。TRION名物の‘鬼練’になかなか出席せず、かつ、一人違うユニフォームを着ている(これはCEEPO様への配慮ですので、ご理解下さい!)私ではありますが、仲間のために何かの糧になれば嬉しいです。
さて、私の長~い「履歴書」ですが、5つに分かれております、というか分かれました。
0)トライアスロン スタートアップ期(アイアンマン未満)
1)アイアンマンへの挑戦~初ハワイにたどり着くまで(30-34才)
2)何度も跳ね返されるバイクの壁(35-39才)
3)ライバルとともに、急速なレベルアップ(40-44才)
4)世界を意識したチャレンジ(45-49才)
最初は気づかなかったのですが、見事にエイジカテゴリーの5才刻みで流れが変わっていることがわかってきました。みなさんも「エイジが上がった」とか、何気なく’業界用語’を使ってますよね。いつのまにか、生き方も支配されてしまっているかもしれませんよ!くれぐれも注意しましょう。それではスタート!
0)トライアスロン スタートアップ期(アイアンマン未満)
バブル真っ只中の1988年にリクルートに入社した私。世の中と同じく、浮かれた不健康な生活を楽しく送り、半年で6kg太ってしまいました。たまたま、会社がスポンサーをしていて無料出場できる河口湖マラソンを走ることになりました。初マラソンは4時間18分で、暫くまともに体が動きませんでした。翌年の河口湖マラソンも出場し、既にバリバリのトライアスリートであった鈴木雄久さん(現在の名=御大!)と出会ったことがきっかけで、90年に沼津トライアスロン駅伝でデビュー!

★真ん中は若き日の御大(まだ呼ばれていない)
その後、社内でトライアスロン部を発足させ、‘ちょっとづつ’アスリート生活に転身していきました。会社帰りに新宿のスポーツクラブで、ゆる練をする程度でしたが、ある日、一人で泳いでいたら、ガンガン泳いでいるトライアスリートから声掛けられたことがありました。実は、丸さんでした!(お顔をしっかり覚えてました。)
数年間はショートばかり、どちらかというと河口湖マラソンでのタイム短縮を目標に活動していました。そして、91年にハワイ初出場を果たした御大の話を聞きながら、飲み会で「自分も3年間でハワイに行く!」と宣言した記憶があります。93年には初サブスリーを達成!このあたりからハワイへの道のりが始まりました。
さて、ここで川島のアイアンマンの全ての結果をご覧下さい。我ながら、ようやってきたなと思います。
★表の左半分がクオリファイレース、右半分がハワイのリザルト、年代別1、5、10位との差です。

1)アイアンマンへの挑戦~初ハワイにたどり着くまで(30―34才)
ハワイへの出場権をとるためには、予選を突破せねばなりませんが、当時、日本人が海外で取るなんていうことは殆ど無く、みんな琵琶湖で開催されるアイアンマンジャパンを目指していました。しかし、出場するためには書類選考があり、ロングのレース実績が問われます。宮古島などロングのレースに出るだけでも倍率が高くて大変な、トライアスロンバブル時代でした。なんとか、94年に佐渡Bタイプに出たのを皮切りに、95年には宮古島に出場するなど、少しづつロングの実績ができていきました。
この頃は、ショートのペースで突っ込み、三種目とも後半に潰れるというレース展開を繰り返していたのを覚えています。そして、95年に初出場した宮古島で、山野井師匠に「20秒差」で先着されたショックで、翌日から禁煙、今日までタバコを一本も吸っていません。逆に言えば、トライアスロンをはじめてから数年は普通にタバコ吸ってたわけですね。エイドステーションで一服しながらメチャクチャ速い先輩もいた時代でした。
宮古島の素晴らしさに魅せられ、96年はレース翌日に、ペンション「星のとなり」で結婚式を挙げ、下地町役場で入籍しました。レースでは、真里がタイムオーバーのペースから驚異的な追い込みで制限時間ギリギリでゴールし、メディアが大騒ぎになりました。トライアスロン仲間、地元の方々(なんと町長さんまで!)の手作りの結婚式は一生忘れられないものです。

★琉球新報一面
そして、この年にやっと念願のアイアンマンジャパン(琵琶湖)のスタートラインに立つことができました。その4月の宮古島で94位に入り、結婚もして、一気にハワイか?と甘い夢を見ていました。当時の宮古島は、ハワイTOP15レベルの外人プロや、日本中の強豪が集結し、TOP100に入ることがステイタスだったのです。スイム、バイクはまずまずのタイムで終われましたが、得意のランで粘りきれずに届きませんでした。御大など先輩達がしっかりハワイ出場権を獲得するのを見て、身の程を知りました。
翌97年は、更に宮古島で78位にランクアップし、かなりの意気込みで琵琶湖に乗り込んだのですが・・・台風の影響でスイムが中止となり、いや~な予感。バイクの後半に入ったところでアームレストが外れて落ちてしまいました。拾いに戻り直そうとするも、ネジがおかしくなっていてダメ。DHポジションが取れなくなり、5分ハワイに届きませんでした。今から振り返っても、この時はかなり凹みました(20年で最高かな)、嫁さんにはかなり気を使ってもらいました。レース後に見かねて、気分転換の旅行に連れてってもらったりしたなあ・・。
そして98年。宮古島で49位とTOP50入り、いよいよかなと思ってると、な、なんと琵琶湖の大会自体が無くなってしまったのです!バブル崩壊の影響もあったのでしょう。救済措置の日本人用ハワイ抽選などもありました。しかし、そんな権利の取り方はいやだったので、真里とともに、初の海外レース=アイアンマンカナダに行くことにしました。カナダ経験者の仲間からは涼しいと聞いていましたが、この日は風と暑さでタフなレースになりました。バイクまでのタイムでは、かなり遅れてしまった感がありましたが、とにかくランで粘りました。力を振り絞ってゴールするも10時間36分。流石にレベルの高いカナダでは無理だろうなあとマッサージを受けていたところ、真里が「速報でギリギリ入ってるよ!」と教えてくれました。いやあ、一生忘れられません。あの瞬間の嬉しさは。結果は年代でハワイ出場権24枠(なんと多いことか!)に対し、23位でした。これくらいの順位だと途中のポジションなんてわかりませんから、諦めずに目の前に集中する、これが全てですよね。最近は順位を確認しながら、失速ないように走ってる自分がいます・・・いかんなあ。
その年の初ハワイ完走の苦しさ(KONA WINDの洗礼!)と嬉しさは説明するまでもありません。。
そして、二つの海外レースで感じたことは、レベルの高さとマナーの良さ。特に、琵琶湖など国内では、今も昔も酷すぎる「ドラフティング」。参加人数とかマーシャルが少ないとか、言い訳する輩がよくいますが、倍の人数でも、選手の姿勢一つで気持ちよくノンドラフティングで走れるんだ、これがアイアンマンだと再認識させられました
2)何度も跳ね返されるバイクの壁(35-39才)
34才で初出場し、ハワイ出場を毎年目指すという目標はありましたが、自分の中でのメインは宮古島で自分の成長を確かめることでした。宮古島は夫婦で10年連続出場しましたが、39才になるまで、9年連続総合順位を上げ続けることができました(これは自分でも誇りです)。

宮古島には色々な思い出がありますが、一番は02年です。バイク→ラントランジッション中に、フロントギアがふくらはぎにグサッと刺さり、恐る恐る見ると‘穴’が5個が開いて、大量に流血しています。「血が止まんなかったら貧血になるかもしれないけど、まあ行くか」と思いながら走りました。抜いた選手ほぼ全員から「大丈夫か!?」と聞かれ、ヤバイ状態みたいなんだな、と思いながらも傷を見ないようにしてゴールまで走り続け、病院に駆け込み、5針縫いました。

★宮古島年代別表彰。石倉さん(右端)がムカついてないか心配
その後の数年間、日本でアイアンマンレースは再開されることは無く、ハワイを目指すためには、海外に行かなくてはなりません。自分はカナダ、チェジュ、ソクチョと各地のレースに出て権利を獲得しました。ラン依存のタイプですが、スイム、バイクも比較的‘穴’が無かったので、どんなコース、状況でも対応できるようになって来たように思います。
しかし、いざハワイに行くと話は違います。回数を重ねてもバイクが全く通用しません。「うまく走れない」という感じですね。暑さ、強風、中程度のローリングヒルの繰り返し、ランに力を残してしまう・・・。
この5年間のアイアンマンで一番印象深いレースは、唯一ハワイを逃した2001年カナダです。バイクで3回パンクしてしまい(リムの問題だったのかな)、スペアタイアも使い切りました。オフィシャルサポートカーに聞いても、当時26インチ(小径)のバイクに乗っていたのでスペアタイアが残っていません。残り30kの山頂エイドステーションで他のサポートカーを待つも来ない。平地ならパンク走行もできますが、その先は長いダウンヒルなので危険。どうせスペアタイアも無さそうだから、リタイアするか・・・などど考えながら、坂を必死に登ってくる選手達を応援していました。すると、観客(カナダ人)から話し掛けられ、事情を説明すると、「俺も去年このレースで何回かパンクした。FINISH(完走しろ)!」と言われ、ジーンと来てしまいました。
そこでは、色んな風景を見ました。決して速くないけど、坂を登りきってガッツポーズをつくる女性選手、待っていた奥さんの前でBIKEを降りて、記念撮影をしていく人など・・・楽しそうだな・・・「速さ」だけじゃないよな・・・。この時間からレースに復帰できてもハワイの権利は取れない、しかし、何とか完走したい思いが沸いて来て、リタイア宣言せずに気長にサポートカーを待つことにしました。ヘルメット、サングラス、バイクシューズを脱ぎ、路肩に座り、コーラと補給物をとり、応援しながら待ちました。そして、やってきたサポートカーに聞くと奇跡的にラスト1本があったのです!大喜びでタイヤを装着し、無事にゴールにたどり着くことができました。1時間くらいロスしているので、ハワイのクオリファイなど頭にはありません。しかし、目の前のレースを走れること、ゴールできることがどれほど嬉しいことか、これが最大の目標なのだ、これは「アイアンカナダ」であり、「世界選手権の予選であることは(大きな)オマケ」と再認識しました。ハワイばかり見てると見失ってしまいがちです。

★アイアンマンワーストタイムの2001年カナダ。でも思い出深い。順位(555位)も縁起よさげ。
3)ライバルとともに、急速なレベルアップ(40―44才)
40才台に入りました。いわゆる「中年」ですね。家庭、お金、仕事、いろんな変化が大きな転機が訪れる時期であります。御大、古畑さんなど、自分より1、2年上の強豪エイジグルーパーが集う「丑寅会」(怖い名前ですね~)というのがありまして、その先輩達から、「40才になるとガクッとくるよ。リューちゃんも気をつけた方がいい」と言われ、その暗示にかかってしまったのか、40才は低迷の1年でした。ちなみに、そう言ってた一人の古畑さんが、最近NHKの’アスリートの魂’で取り上げられ、「50才過ぎても限界を決めない」と語ってるのを見て、大笑いしてしまいました。「いい前言撤回」はありだと思います。
低迷の始まりは、夫婦揃って10年連続出場の宮古島(正式には40才の2週間前ですが)でした。BIKE途中で飛び出してきた犬が原因で落車し、完全に気持ちが切れてしまい、初めて順位・タイムともに落としてしまいました。(言い訳です)。また、自ら志願して社内で全く違う仕事に変わったこともあり、この年は4月の宮古島以降、トライアスロンを封印しようと決めました。しかし皮肉なことに、仕事に全精力を注ぐつもりだったのが、逆にスランプに陥ってしまったのです。この時に初めて、自分にとってトライアスロンが、単なる趣味を越えた、何だか「欠かせないもの」になっていることを自覚したのです。
1年の封印明けの05年シーズン、さてどのレースに出るか?引き続き宮古島?でも昨年から福江島で復活したアイアンマンジャパンにも出たい。しかし、時期が近過ぎて両方は無理だな・・。10回連続を果たした区切りということで、アイアンマンを選ぶことにしました。宮古島は結婚・入籍した地でもあり、ほんとに毎年出たいのですが・・・。
明確な目標があったわけではありませんでしたが、復帰戦のアイアンマンジャパンで、ロングで初のエイジ優勝することができました。一転して、06年はバイク中盤でスポークが折れてしまい、ハワイを逃すことになりました。しかし、01年カナダでの経験があったためかとても冷静で、ランも集中して走り続けることができ、「俺もトラブル慣れしてきたなあ」と思ったものです。そして、宿に戻ると、一緒に参加していた初アイアンマンの後輩=山田君が「レース中の吐血」で強制リタイアとなり、緊急入院した連絡があり、「ハワイを逃した」ことなど頭から吹き飛んでしまいました!幸いに大事に至ることはなく、帰りの日に退院できた山田君と、五島牛を食べながら、「ハワイ」よりも「完走」よりも「無事」であることが最優先なのだ、と基本中の基本を思い出すことになりました。
この06年は、幸か不幸か、時間とお金(ハワイ遠征費!)の余裕ができましたので、いいタイミングだと思い、三つの投資(アベノミクス的)をしました。①ライバルであり友達である、彦井さんが販売代理をしている「コンピュトレーナー」を購入し、インドアトレーニングの質アップを図る。②田中社長がブランドを立ち上げた時からずっと乗っているCEEPOでタイムトライアルモデル=TT KILLERがリリースされたので、ご厚意により乗り換え。③ウェイトトレーニングの開始→スイムを見てもらっている天野コーチにウェイトメニューを組んでもらいました。
そうだ、TRIONにも協賛いただいているCEEPOと私の出会いをお話ししておかねばなりません。田中社長には、REEBOKにいらっしゃった時からチームウェア等でお世話になっていたのですが、ある昼休み、銀座を歩いているとCEEPOカーで営業中の田中社長に発見され、銀座のど真ん中で、初代BIKEをスーツで試乗させられ、購入に至るという運命的?なものでした!TRIONのCEEPOライダー4人中3人は、既に2014のハワイを決めていますから、自分も何とかしたいところですね。
さて、結果的には、この三つの相乗効果でバイク力を大幅に上げることができました。これまで長く練習してきたのに、何でこの時期に一段グッと伸びたのだろう?と不思議だったのですが、最大の要因は「体の使い方が変わった」ことだと考えてます。「コンピュトレーナー」は、PC画面でペダリングの波形、出力等がリアルタイムで可視化されるのですが、それを見ながら、バイクのポジション調整ができ、楽に力を出せるポジションが自分なりにわかったことが自分にとっての最大の収穫でした。これは今も毎年やっています。
その効果は07年のアイアンマンジャパンで表れました。スイムもこれまでにないポジションで上がれ、バイクで更にポジションを上げ、余裕を持ってランも走れるという、今までの「ラン依存」と全く違ったレース展開になり、9時間49分で初のアイアンマンサブ10を達成、遥か遠い存在だった名取祥三さんと5分差でゴールできました。自分のベストレースの一つです。そして、このあたりから、田中さん、石倉さん、吉村さん、彦井さん、タム・・・40代の仲間達も年齢に反比例するように、更にレベルを上げていきました!恐ろしや。

★ベストレース=07年福江島 右端にタムが!

★TT KILLER+AMANDA DISCホイール 最高の組み合わせ!

08年のハワイでは、バイクが絶好調(初めて攻める感じで乗れた!)で、サブ10を狙えるタイムでランに移りました。しかし、ここにまた大きな落とし穴が待っていました、ハンガーノック(エネルギー切れ)です。当然、頭では知っていましたが、体験したのは初めてでした。調子の良さで油断してしまったのか、バイクで持っていた固形物をあまり食べず、おにぎりを入れていたスペシャルフードのバックがすぐに見つからなかったので、タイムが気になり受け取らずに先を急ぎました。すると、そのつけが、ラン10k過ぎからジワジワ出て始めました。少し空腹感を感じ始め、慌ててエイド毎にバナナ、ジェルを補給するもダメ。20k手前からは歩いてしまいました。エイドで座って、固形物を食べても体に力が入りません。暫く休んでいるとみるみる体にエネルギーが行き渡ってくるのがわかるようになり、レースに復帰できました。長年やってきましたが、改めて、補給の大切さ、目先の数秒を惜しむことで、1時間を失ってしまうことを思い知りました。今年のハワイチャンピオンのフレデリック・ヴァン・リルデも、ライバル達にバイクで遅れるのを承知で敢えて立ち止まり、スペシャルニーズを取り、後半に備えたそうです。
ちなみにこの年のハワイでにクレイグ・アレキサンダーが初優勝しましたが、我々はコンドミニアムで「お隣さん」でした。妙に速そうなのがいる、なんて話をしていたら・・な、なんと!レース翌日は握手攻めにしたり、子供を拉致したり、写真も一緒に撮ったんだけどなあ・・大掃除で発見したらアップしよう!

振り返ると、04年に休養したことでモチベーションが上がったこと、メカトラブルでハワイを逃した06年オフの取り組み(三つの投資)が一段のレベルアップに繋がったこと、08年のハンガーノック経験では、その瞬間だけでなく先を見据えることの大事さなど、いろんなことを学びました。あくまでも「今から思えば」ですけどね。
4)世界を意識したチャレンジ(45-49才)
「ガクッと来る」と言われていた40代前半、予想はいい方向に外れ、仲間達とともにレベルアップして来ましたが、40代後半は果たしてどうなるか?さすがに下降線に入っていくのか・・・
1年目の09年のハワイは風が強いコンディションでしたが、ハワイ自己ベストタイムを更新し、年代別18位に入りました。もちろんエイジグループが一つ上がったことも要因ですが、さらに伸びていけば、40代のうちに年代トップ10、表彰台(5位)に手が届くのではないか?尊敬する先輩から「その部分だけは間違い無く、グローバル人材だ(笑)」と言われて、へ~自分にも世界に通用するものがあるんだ、と意識するようになりました。
そして、翌10年には、初のハワイサブ10を達成!しかし、年代順位は25位と上げることができませんでした。コンディションが良かったのでタイムが出しやすかったことに加え、周囲のレベルも上がっているからです。日本以上に欧米でのアイアンマン人気は凄まじく、人気レースは1年前のWEBエントリー開始数分で「売り切れ」になってしまうほどです。
翌11年、アイアンマンチャイナが中止になったこともあり、アイアンマンコリアに同年代の強豪達が勢揃いしました。暑さとランコースの激しいアップダウンでタフなレースになりましたが、このおっさんエイジのレベルは恐ろしく、年代7位までがサブ10を叩き出し、‘アイアンマンlive’でもニュースになったほどです。巷では「地獄のエイジ」とか「死のエイジ」とか言われていたようです。自分は運良くベストタイムを記録し、エイジ優勝を果たすことができました。その勢いで、ハワイでもベストタイムを更新したのですが・・・年代24位とまた横這い。世界はほんまに広いです。

★2011年チェジュ ゴール100m前から足が痙りまくり!

★結成前のTRIONメンバーに加え、稲田さん、渋谷さん、石倉さん、吉村さんの豪華メンバー。あれ?真ん中の海パンは誰?

★御大だ~!!(レポーター:タム)
そして2012年は、公私ともに大きな変化の年となりました。「これからの人生半分は血が騒ぐことをしよう!」と決め、24年間在籍したリクルートを卒業、これまでの経験を生かしたフリーランス(個人事業主)で仕事をすることに決めました。また、「血が騒ぐこと」の一つであるトライアスロンでも、いつかはやりたいな、と思っていたチャレンジをすることにしました。それは、10月のハワイまでの半年間、「仕事よりトレーニング優先の生活をしたらどこまで順位を上げることができるのかを試す」ことです。20年以上、仕事とトレーニングをやり繰りしてきましましたが、サラリーマンである以上、仕事最優先でやってきました。みなさん、「嘘だろ」と言いそうですが、本当です!しかも、どうせやるなら、定年退職後とかではなく、まだ成長軌道上にあるうちにやってみたかったのです。振り返ると、98年の初ハワイの時に表彰台(年代5位)まで85分あった差は、11年には23分まで縮まりました!(→最初の方の表を参照)。とことん練習したら??考えただけでもワクワクするではありませんか!
まずはハワイ出場権を取らなくてはなりませんので、有給消化中の3月にアイアンマンメルボルンに出場しました。トライアスロン強国=オーストラリアでのレースは初めてです。スイムスタート時間が当初から変更になったのですが、あろうことか、レース会場でのアナウンスを聞き間違えてスタートを大幅に出遅れるという失態を犯してしまいました。一生に一度かもしれないチャレンジが未遂に終わってしまうのか!と焦りましたが、バイク後半、ランで追い込んで年代3位になり、無事ハワイの権利をとることができました。高速コース×無風&涼しいという、最高のコンディションの中、9時間22分とアイアンマンベストタイムを大幅に更新できました。もしハワイを逃していたら・・と思うとゾッとしますが、「トラブル慣れ」と、一緒に出遅れてしまったタムが必死で走っているのを見てエンジンがかかったお陰で、2人ともハワイの権利を獲得できました。う~ん、やはりグローバル人材になるためには英語力向上が必要ですね。ちなみに、帰国後から「スピードラーニング」をやり始めました。

★メルボルン表彰式 登壇前にシャンパンが振舞われる
さて、無事に世界への挑戦権を獲った後、TRIONの仲間や、石倉さん、吉村さんなど強豪エイジ達と順調にトレーニングを積み、直前の練習状況では自分史上最強の仕上がり(特にバイク)を感じていました。大学時代からの親友の服部教授が「人生で初めて人を応援したい」ということで、わざわざハワイまで来てくることになりました。ただ、世界の表彰台までは昨年で23分差、かなり攻めるレースをしないと届きません。特にタイムの稼ぎ所は一番時間が長いバイクです。自分の実力からして、バイク温存→ラン追い上げでは表彰台はノーチャンスです。そのつもりでかなり強化してきました。そして結果は・・・バイク中盤からガンガンアタックをかけ過ぎたためか、後半に大失速、ランでは途中から歩いてしまい、年代114位という結果に終わってしまいました。全く後悔は無く、サバサバした感情だったのですが、帰国後に悔しさがこみ上げてきました。以前のハンガーノックのように体に異変が起きたわけでもないのに、ランで歩いてしまったことへの後悔です。またしても基本中の基本を思い知らされたわけです。
また、アイアンマンという競技は、その特質上、「一発当たる」ということはありえないことを再認識しました。高いレベルの実力を備え、それをいかにレースで均等に出し続け、トータルで速く走るか。う~ん、難しい。まだまだ未熟です。
12年ハワイ終了後からは、フリーランスとしての仕事を本格化し、以前と同じような生活ペースに戻っていきました。13年はアイアンマンケアンズで年代2位となり、ハワイに出場はしたものの、昨年でかなりやりきった感があり、特に明確な目標もなくレースに臨みました。そして、冒頭に記したようなレース結果となったのです。

以上で、5つのエイジグループの旅が終わりました。振り返ると、実の多くの方々にお世話になり、刺激を受けながら、あっという間の24年でした。みなさんに感謝です。ありがとうございます。
さて、そろそろエンディングにしないといけません。
これだけ長くやってると、よく次のような質問をされ、最近はこう答えてます。
Q.あなたにとって何?→A.自己満足。
Q.ストイックな生活されてるんですよね?→A.いいえ、全く。
Q.長く続ける秘訣は?→A.自分がやりたいことしかやらない。
要するに、’気の向くまま’という感じでしょうか。
自分は、トライアスロン、特にアイアンマンは、「究極の積み上げの遊び」だと思います(もちろん、他にはもっとすごい種目があると思いますが)。三種目もやらなくてはならない、コース、コンディションも様々で距離も長いので、実際に練習で同じことができません。なので、「積み上げ方」が無限にあるし、底知れないものです。自分は、ちょっとづつ工夫しながら、これまでに書いたような色々な経験から学び、積み上げてきました。但し、仕事や睡眠時間を無理やり削ったり、体調悪かったり怪我しているのに我慢して練習、そういうのは一切やりません。多分、そういう生活を送っていると誤解されてると思いますけどね(笑)。プロじゃないですから。だから故障もあまりしていません。
リクルート退職後の半年間だけは、トライアスロン優先の生活を実際にやってみましたが、自分は、これまでの2割増しくらいが精一杯でしたね。体力、モチベーション両面で。「もっと時間があったらもっと強くなれるのに」とボヤいているみなさん、色んなことをやりくりしながら取り組むからこそ、集中力が高くいいトレーニングができるのではないかと思いますよ。今の環境でできることをまずやりましょう!(説教臭くて恐縮です)
一方で、最近気になってるのは、「短期間に、急に、積み上げたがる人」が多過ぎるのではということです。トライアスロンスクールなどが増えてチャレンジしやすくなったことや、エントリー方法がWEBで早いもの勝ち制になってきたことが影響しているのだと思います。実績も無いのに、いきなりアイアンマンに出られる、出るというのはどれだけ危険なことか、また勿体無いことだと感じますね。
さて、来年からは6つ目のエイジグループ50-54に入ります。ハワイのスイムで感じた「面倒くさ、飽きた」感はどうなってしまうのでしょうか?この振り返りでモチベーションが上がった感じも特にないです。まあ、気が向きゃ一生懸命やるでしょう。
但し、これまでと違うのは、(普通ならば)5年の間でタイムのピークを迎え、下降線に入っていくことです。TRIONの先輩達は加齢の常識を覆しそうな勢いではありますが、そうなった時に、自分がどんな気持ちになり、どう遊ぶのか?スパッとやめてしまうか?・・・どっちの可能性もあります。そして、楽しみです。これからも、どうぞよろしくお願いします!
<予告>
これから、TRIONの「ハワイ常連おっさん軍団」の’トライアスロン履歴書’がリレー型式で続いていきますので、お楽しみに!次は、私のトライアスロンへのキッカケを作って頂いた師匠=御大の「履歴書」がアップされる予定です。
あ~やっとこれで年が越せます。
【注意!】ダラダラと長いです。ヒマな時に読んでください。
さて、何故、振り返ろうと思ったのか?キッカケは二つあります。
一つ目のキッカケは、今年で13回目の出場のハワイでのこと。スタート後、スイムのバトルを抜け、綺麗な海を泳ぎながら底を見たときに、「面倒くさ、飽きた」という感情が湧き上がってきました。これはトライアスロンを始めてから一度もなかったこと。しかも、トライアスロンの聖地=コナの海で・・。自分でもビックリ。一体何なの?ここは、初心に戻るために「振り返り」が必要でしょう。
その後のレース展開をちょっとだけ記しておきましょう。
10時間弱のレース中、手を抜いたわけでもないのですが、淡々とスイム、バイクを終えました。そして、ラン7kくらいで、先行し折り返してくる御大とすれ違ったときに突然スイッチが入り、並走していたオーストラリア人女子と23kまできっちり4:30/kペースで並走。ランでは力を出し切ることができました。トータルで9時間58分とサブ10ですが、年代別59位、ここでは限界まで追い込めないと上には行けませんね。
え、今年のレポートそれだけ?と言われそうですが、以上です!(笑)

二つ目のキッカケは、少し前にチームTRIONのミキティーGMからお願いされたこと。「ズバリ、‘川島隆一物語’を書いて欲しい!トライアスロン始めるきっかけから、ハワイ常連になるまでの波乱万丈のアスリート人生を綴って欲しい」と。TRION名物の‘鬼練’になかなか出席せず、かつ、一人違うユニフォームを着ている(これはCEEPO様への配慮ですので、ご理解下さい!)私ではありますが、仲間のために何かの糧になれば嬉しいです。
さて、私の長~い「履歴書」ですが、5つに分かれております、というか分かれました。
0)トライアスロン スタートアップ期(アイアンマン未満)
1)アイアンマンへの挑戦~初ハワイにたどり着くまで(30-34才)
2)何度も跳ね返されるバイクの壁(35-39才)
3)ライバルとともに、急速なレベルアップ(40-44才)
4)世界を意識したチャレンジ(45-49才)
最初は気づかなかったのですが、見事にエイジカテゴリーの5才刻みで流れが変わっていることがわかってきました。みなさんも「エイジが上がった」とか、何気なく’業界用語’を使ってますよね。いつのまにか、生き方も支配されてしまっているかもしれませんよ!くれぐれも注意しましょう。それではスタート!
0)トライアスロン スタートアップ期(アイアンマン未満)
バブル真っ只中の1988年にリクルートに入社した私。世の中と同じく、浮かれた不健康な生活を楽しく送り、半年で6kg太ってしまいました。たまたま、会社がスポンサーをしていて無料出場できる河口湖マラソンを走ることになりました。初マラソンは4時間18分で、暫くまともに体が動きませんでした。翌年の河口湖マラソンも出場し、既にバリバリのトライアスリートであった鈴木雄久さん(現在の名=御大!)と出会ったことがきっかけで、90年に沼津トライアスロン駅伝でデビュー!

★真ん中は若き日の御大(まだ呼ばれていない)
その後、社内でトライアスロン部を発足させ、‘ちょっとづつ’アスリート生活に転身していきました。会社帰りに新宿のスポーツクラブで、ゆる練をする程度でしたが、ある日、一人で泳いでいたら、ガンガン泳いでいるトライアスリートから声掛けられたことがありました。実は、丸さんでした!(お顔をしっかり覚えてました。)
数年間はショートばかり、どちらかというと河口湖マラソンでのタイム短縮を目標に活動していました。そして、91年にハワイ初出場を果たした御大の話を聞きながら、飲み会で「自分も3年間でハワイに行く!」と宣言した記憶があります。93年には初サブスリーを達成!このあたりからハワイへの道のりが始まりました。
さて、ここで川島のアイアンマンの全ての結果をご覧下さい。我ながら、ようやってきたなと思います。
★表の左半分がクオリファイレース、右半分がハワイのリザルト、年代別1、5、10位との差です。

1)アイアンマンへの挑戦~初ハワイにたどり着くまで(30―34才)
ハワイへの出場権をとるためには、予選を突破せねばなりませんが、当時、日本人が海外で取るなんていうことは殆ど無く、みんな琵琶湖で開催されるアイアンマンジャパンを目指していました。しかし、出場するためには書類選考があり、ロングのレース実績が問われます。宮古島などロングのレースに出るだけでも倍率が高くて大変な、トライアスロンバブル時代でした。なんとか、94年に佐渡Bタイプに出たのを皮切りに、95年には宮古島に出場するなど、少しづつロングの実績ができていきました。
この頃は、ショートのペースで突っ込み、三種目とも後半に潰れるというレース展開を繰り返していたのを覚えています。そして、95年に初出場した宮古島で、山野井師匠に「20秒差」で先着されたショックで、翌日から禁煙、今日までタバコを一本も吸っていません。逆に言えば、トライアスロンをはじめてから数年は普通にタバコ吸ってたわけですね。エイドステーションで一服しながらメチャクチャ速い先輩もいた時代でした。
宮古島の素晴らしさに魅せられ、96年はレース翌日に、ペンション「星のとなり」で結婚式を挙げ、下地町役場で入籍しました。レースでは、真里がタイムオーバーのペースから驚異的な追い込みで制限時間ギリギリでゴールし、メディアが大騒ぎになりました。トライアスロン仲間、地元の方々(なんと町長さんまで!)の手作りの結婚式は一生忘れられないものです。

★琉球新報一面
そして、この年にやっと念願のアイアンマンジャパン(琵琶湖)のスタートラインに立つことができました。その4月の宮古島で94位に入り、結婚もして、一気にハワイか?と甘い夢を見ていました。当時の宮古島は、ハワイTOP15レベルの外人プロや、日本中の強豪が集結し、TOP100に入ることがステイタスだったのです。スイム、バイクはまずまずのタイムで終われましたが、得意のランで粘りきれずに届きませんでした。御大など先輩達がしっかりハワイ出場権を獲得するのを見て、身の程を知りました。
翌97年は、更に宮古島で78位にランクアップし、かなりの意気込みで琵琶湖に乗り込んだのですが・・・台風の影響でスイムが中止となり、いや~な予感。バイクの後半に入ったところでアームレストが外れて落ちてしまいました。拾いに戻り直そうとするも、ネジがおかしくなっていてダメ。DHポジションが取れなくなり、5分ハワイに届きませんでした。今から振り返っても、この時はかなり凹みました(20年で最高かな)、嫁さんにはかなり気を使ってもらいました。レース後に見かねて、気分転換の旅行に連れてってもらったりしたなあ・・。
そして98年。宮古島で49位とTOP50入り、いよいよかなと思ってると、な、なんと琵琶湖の大会自体が無くなってしまったのです!バブル崩壊の影響もあったのでしょう。救済措置の日本人用ハワイ抽選などもありました。しかし、そんな権利の取り方はいやだったので、真里とともに、初の海外レース=アイアンマンカナダに行くことにしました。カナダ経験者の仲間からは涼しいと聞いていましたが、この日は風と暑さでタフなレースになりました。バイクまでのタイムでは、かなり遅れてしまった感がありましたが、とにかくランで粘りました。力を振り絞ってゴールするも10時間36分。流石にレベルの高いカナダでは無理だろうなあとマッサージを受けていたところ、真里が「速報でギリギリ入ってるよ!」と教えてくれました。いやあ、一生忘れられません。あの瞬間の嬉しさは。結果は年代でハワイ出場権24枠(なんと多いことか!)に対し、23位でした。これくらいの順位だと途中のポジションなんてわかりませんから、諦めずに目の前に集中する、これが全てですよね。最近は順位を確認しながら、失速ないように走ってる自分がいます・・・いかんなあ。
その年の初ハワイ完走の苦しさ(KONA WINDの洗礼!)と嬉しさは説明するまでもありません。。

そして、二つの海外レースで感じたことは、レベルの高さとマナーの良さ。特に、琵琶湖など国内では、今も昔も酷すぎる「ドラフティング」。参加人数とかマーシャルが少ないとか、言い訳する輩がよくいますが、倍の人数でも、選手の姿勢一つで気持ちよくノンドラフティングで走れるんだ、これがアイアンマンだと再認識させられました
2)何度も跳ね返されるバイクの壁(35-39才)
34才で初出場し、ハワイ出場を毎年目指すという目標はありましたが、自分の中でのメインは宮古島で自分の成長を確かめることでした。宮古島は夫婦で10年連続出場しましたが、39才になるまで、9年連続総合順位を上げ続けることができました(これは自分でも誇りです)。

宮古島には色々な思い出がありますが、一番は02年です。バイク→ラントランジッション中に、フロントギアがふくらはぎにグサッと刺さり、恐る恐る見ると‘穴’が5個が開いて、大量に流血しています。「血が止まんなかったら貧血になるかもしれないけど、まあ行くか」と思いながら走りました。抜いた選手ほぼ全員から「大丈夫か!?」と聞かれ、ヤバイ状態みたいなんだな、と思いながらも傷を見ないようにしてゴールまで走り続け、病院に駆け込み、5針縫いました。

★宮古島年代別表彰。石倉さん(右端)がムカついてないか心配
その後の数年間、日本でアイアンマンレースは再開されることは無く、ハワイを目指すためには、海外に行かなくてはなりません。自分はカナダ、チェジュ、ソクチョと各地のレースに出て権利を獲得しました。ラン依存のタイプですが、スイム、バイクも比較的‘穴’が無かったので、どんなコース、状況でも対応できるようになって来たように思います。
しかし、いざハワイに行くと話は違います。回数を重ねてもバイクが全く通用しません。「うまく走れない」という感じですね。暑さ、強風、中程度のローリングヒルの繰り返し、ランに力を残してしまう・・・。
この5年間のアイアンマンで一番印象深いレースは、唯一ハワイを逃した2001年カナダです。バイクで3回パンクしてしまい(リムの問題だったのかな)、スペアタイアも使い切りました。オフィシャルサポートカーに聞いても、当時26インチ(小径)のバイクに乗っていたのでスペアタイアが残っていません。残り30kの山頂エイドステーションで他のサポートカーを待つも来ない。平地ならパンク走行もできますが、その先は長いダウンヒルなので危険。どうせスペアタイアも無さそうだから、リタイアするか・・・などど考えながら、坂を必死に登ってくる選手達を応援していました。すると、観客(カナダ人)から話し掛けられ、事情を説明すると、「俺も去年このレースで何回かパンクした。FINISH(完走しろ)!」と言われ、ジーンと来てしまいました。
そこでは、色んな風景を見ました。決して速くないけど、坂を登りきってガッツポーズをつくる女性選手、待っていた奥さんの前でBIKEを降りて、記念撮影をしていく人など・・・楽しそうだな・・・「速さ」だけじゃないよな・・・。この時間からレースに復帰できてもハワイの権利は取れない、しかし、何とか完走したい思いが沸いて来て、リタイア宣言せずに気長にサポートカーを待つことにしました。ヘルメット、サングラス、バイクシューズを脱ぎ、路肩に座り、コーラと補給物をとり、応援しながら待ちました。そして、やってきたサポートカーに聞くと奇跡的にラスト1本があったのです!大喜びでタイヤを装着し、無事にゴールにたどり着くことができました。1時間くらいロスしているので、ハワイのクオリファイなど頭にはありません。しかし、目の前のレースを走れること、ゴールできることがどれほど嬉しいことか、これが最大の目標なのだ、これは「アイアンカナダ」であり、「世界選手権の予選であることは(大きな)オマケ」と再認識しました。ハワイばかり見てると見失ってしまいがちです。

★アイアンマンワーストタイムの2001年カナダ。でも思い出深い。順位(555位)も縁起よさげ。
3)ライバルとともに、急速なレベルアップ(40―44才)
40才台に入りました。いわゆる「中年」ですね。家庭、お金、仕事、いろんな変化が大きな転機が訪れる時期であります。御大、古畑さんなど、自分より1、2年上の強豪エイジグルーパーが集う「丑寅会」(怖い名前ですね~)というのがありまして、その先輩達から、「40才になるとガクッとくるよ。リューちゃんも気をつけた方がいい」と言われ、その暗示にかかってしまったのか、40才は低迷の1年でした。ちなみに、そう言ってた一人の古畑さんが、最近NHKの’アスリートの魂’で取り上げられ、「50才過ぎても限界を決めない」と語ってるのを見て、大笑いしてしまいました。「いい前言撤回」はありだと思います。
低迷の始まりは、夫婦揃って10年連続出場の宮古島(正式には40才の2週間前ですが)でした。BIKE途中で飛び出してきた犬が原因で落車し、完全に気持ちが切れてしまい、初めて順位・タイムともに落としてしまいました。(言い訳です)。また、自ら志願して社内で全く違う仕事に変わったこともあり、この年は4月の宮古島以降、トライアスロンを封印しようと決めました。しかし皮肉なことに、仕事に全精力を注ぐつもりだったのが、逆にスランプに陥ってしまったのです。この時に初めて、自分にとってトライアスロンが、単なる趣味を越えた、何だか「欠かせないもの」になっていることを自覚したのです。
1年の封印明けの05年シーズン、さてどのレースに出るか?引き続き宮古島?でも昨年から福江島で復活したアイアンマンジャパンにも出たい。しかし、時期が近過ぎて両方は無理だな・・。10回連続を果たした区切りということで、アイアンマンを選ぶことにしました。宮古島は結婚・入籍した地でもあり、ほんとに毎年出たいのですが・・・。
明確な目標があったわけではありませんでしたが、復帰戦のアイアンマンジャパンで、ロングで初のエイジ優勝することができました。一転して、06年はバイク中盤でスポークが折れてしまい、ハワイを逃すことになりました。しかし、01年カナダでの経験があったためかとても冷静で、ランも集中して走り続けることができ、「俺もトラブル慣れしてきたなあ」と思ったものです。そして、宿に戻ると、一緒に参加していた初アイアンマンの後輩=山田君が「レース中の吐血」で強制リタイアとなり、緊急入院した連絡があり、「ハワイを逃した」ことなど頭から吹き飛んでしまいました!幸いに大事に至ることはなく、帰りの日に退院できた山田君と、五島牛を食べながら、「ハワイ」よりも「完走」よりも「無事」であることが最優先なのだ、と基本中の基本を思い出すことになりました。
この06年は、幸か不幸か、時間とお金(ハワイ遠征費!)の余裕ができましたので、いいタイミングだと思い、三つの投資(アベノミクス的)をしました。①ライバルであり友達である、彦井さんが販売代理をしている「コンピュトレーナー」を購入し、インドアトレーニングの質アップを図る。②田中社長がブランドを立ち上げた時からずっと乗っているCEEPOでタイムトライアルモデル=TT KILLERがリリースされたので、ご厚意により乗り換え。③ウェイトトレーニングの開始→スイムを見てもらっている天野コーチにウェイトメニューを組んでもらいました。
そうだ、TRIONにも協賛いただいているCEEPOと私の出会いをお話ししておかねばなりません。田中社長には、REEBOKにいらっしゃった時からチームウェア等でお世話になっていたのですが、ある昼休み、銀座を歩いているとCEEPOカーで営業中の田中社長に発見され、銀座のど真ん中で、初代BIKEをスーツで試乗させられ、購入に至るという運命的?なものでした!TRIONのCEEPOライダー4人中3人は、既に2014のハワイを決めていますから、自分も何とかしたいところですね。
さて、結果的には、この三つの相乗効果でバイク力を大幅に上げることができました。これまで長く練習してきたのに、何でこの時期に一段グッと伸びたのだろう?と不思議だったのですが、最大の要因は「体の使い方が変わった」ことだと考えてます。「コンピュトレーナー」は、PC画面でペダリングの波形、出力等がリアルタイムで可視化されるのですが、それを見ながら、バイクのポジション調整ができ、楽に力を出せるポジションが自分なりにわかったことが自分にとっての最大の収穫でした。これは今も毎年やっています。
その効果は07年のアイアンマンジャパンで表れました。スイムもこれまでにないポジションで上がれ、バイクで更にポジションを上げ、余裕を持ってランも走れるという、今までの「ラン依存」と全く違ったレース展開になり、9時間49分で初のアイアンマンサブ10を達成、遥か遠い存在だった名取祥三さんと5分差でゴールできました。自分のベストレースの一つです。そして、このあたりから、田中さん、石倉さん、吉村さん、彦井さん、タム・・・40代の仲間達も年齢に反比例するように、更にレベルを上げていきました!恐ろしや。

★ベストレース=07年福江島 右端にタムが!

★TT KILLER+AMANDA DISCホイール 最高の組み合わせ!

08年のハワイでは、バイクが絶好調(初めて攻める感じで乗れた!)で、サブ10を狙えるタイムでランに移りました。しかし、ここにまた大きな落とし穴が待っていました、ハンガーノック(エネルギー切れ)です。当然、頭では知っていましたが、体験したのは初めてでした。調子の良さで油断してしまったのか、バイクで持っていた固形物をあまり食べず、おにぎりを入れていたスペシャルフードのバックがすぐに見つからなかったので、タイムが気になり受け取らずに先を急ぎました。すると、そのつけが、ラン10k過ぎからジワジワ出て始めました。少し空腹感を感じ始め、慌ててエイド毎にバナナ、ジェルを補給するもダメ。20k手前からは歩いてしまいました。エイドで座って、固形物を食べても体に力が入りません。暫く休んでいるとみるみる体にエネルギーが行き渡ってくるのがわかるようになり、レースに復帰できました。長年やってきましたが、改めて、補給の大切さ、目先の数秒を惜しむことで、1時間を失ってしまうことを思い知りました。今年のハワイチャンピオンのフレデリック・ヴァン・リルデも、ライバル達にバイクで遅れるのを承知で敢えて立ち止まり、スペシャルニーズを取り、後半に備えたそうです。
ちなみにこの年のハワイでにクレイグ・アレキサンダーが初優勝しましたが、我々はコンドミニアムで「お隣さん」でした。妙に速そうなのがいる、なんて話をしていたら・・な、なんと!レース翌日は握手攻めにしたり、子供を拉致したり、写真も一緒に撮ったんだけどなあ・・大掃除で発見したらアップしよう!

振り返ると、04年に休養したことでモチベーションが上がったこと、メカトラブルでハワイを逃した06年オフの取り組み(三つの投資)が一段のレベルアップに繋がったこと、08年のハンガーノック経験では、その瞬間だけでなく先を見据えることの大事さなど、いろんなことを学びました。あくまでも「今から思えば」ですけどね。
4)世界を意識したチャレンジ(45-49才)
「ガクッと来る」と言われていた40代前半、予想はいい方向に外れ、仲間達とともにレベルアップして来ましたが、40代後半は果たしてどうなるか?さすがに下降線に入っていくのか・・・
1年目の09年のハワイは風が強いコンディションでしたが、ハワイ自己ベストタイムを更新し、年代別18位に入りました。もちろんエイジグループが一つ上がったことも要因ですが、さらに伸びていけば、40代のうちに年代トップ10、表彰台(5位)に手が届くのではないか?尊敬する先輩から「その部分だけは間違い無く、グローバル人材だ(笑)」と言われて、へ~自分にも世界に通用するものがあるんだ、と意識するようになりました。
そして、翌10年には、初のハワイサブ10を達成!しかし、年代順位は25位と上げることができませんでした。コンディションが良かったのでタイムが出しやすかったことに加え、周囲のレベルも上がっているからです。日本以上に欧米でのアイアンマン人気は凄まじく、人気レースは1年前のWEBエントリー開始数分で「売り切れ」になってしまうほどです。
翌11年、アイアンマンチャイナが中止になったこともあり、アイアンマンコリアに同年代の強豪達が勢揃いしました。暑さとランコースの激しいアップダウンでタフなレースになりましたが、このおっさんエイジのレベルは恐ろしく、年代7位までがサブ10を叩き出し、‘アイアンマンlive’でもニュースになったほどです。巷では「地獄のエイジ」とか「死のエイジ」とか言われていたようです。自分は運良くベストタイムを記録し、エイジ優勝を果たすことができました。その勢いで、ハワイでもベストタイムを更新したのですが・・・年代24位とまた横這い。世界はほんまに広いです。

★2011年チェジュ ゴール100m前から足が痙りまくり!

★結成前のTRIONメンバーに加え、稲田さん、渋谷さん、石倉さん、吉村さんの豪華メンバー。あれ?真ん中の海パンは誰?

★御大だ~!!(レポーター:タム)
そして2012年は、公私ともに大きな変化の年となりました。「これからの人生半分は血が騒ぐことをしよう!」と決め、24年間在籍したリクルートを卒業、これまでの経験を生かしたフリーランス(個人事業主)で仕事をすることに決めました。また、「血が騒ぐこと」の一つであるトライアスロンでも、いつかはやりたいな、と思っていたチャレンジをすることにしました。それは、10月のハワイまでの半年間、「仕事よりトレーニング優先の生活をしたらどこまで順位を上げることができるのかを試す」ことです。20年以上、仕事とトレーニングをやり繰りしてきましましたが、サラリーマンである以上、仕事最優先でやってきました。みなさん、「嘘だろ」と言いそうですが、本当です!しかも、どうせやるなら、定年退職後とかではなく、まだ成長軌道上にあるうちにやってみたかったのです。振り返ると、98年の初ハワイの時に表彰台(年代5位)まで85分あった差は、11年には23分まで縮まりました!(→最初の方の表を参照)。とことん練習したら??考えただけでもワクワクするではありませんか!
まずはハワイ出場権を取らなくてはなりませんので、有給消化中の3月にアイアンマンメルボルンに出場しました。トライアスロン強国=オーストラリアでのレースは初めてです。スイムスタート時間が当初から変更になったのですが、あろうことか、レース会場でのアナウンスを聞き間違えてスタートを大幅に出遅れるという失態を犯してしまいました。一生に一度かもしれないチャレンジが未遂に終わってしまうのか!と焦りましたが、バイク後半、ランで追い込んで年代3位になり、無事ハワイの権利をとることができました。高速コース×無風&涼しいという、最高のコンディションの中、9時間22分とアイアンマンベストタイムを大幅に更新できました。もしハワイを逃していたら・・と思うとゾッとしますが、「トラブル慣れ」と、一緒に出遅れてしまったタムが必死で走っているのを見てエンジンがかかったお陰で、2人ともハワイの権利を獲得できました。う~ん、やはりグローバル人材になるためには英語力向上が必要ですね。ちなみに、帰国後から「スピードラーニング」をやり始めました。

★メルボルン表彰式 登壇前にシャンパンが振舞われる
さて、無事に世界への挑戦権を獲った後、TRIONの仲間や、石倉さん、吉村さんなど強豪エイジ達と順調にトレーニングを積み、直前の練習状況では自分史上最強の仕上がり(特にバイク)を感じていました。大学時代からの親友の服部教授が「人生で初めて人を応援したい」ということで、わざわざハワイまで来てくることになりました。ただ、世界の表彰台までは昨年で23分差、かなり攻めるレースをしないと届きません。特にタイムの稼ぎ所は一番時間が長いバイクです。自分の実力からして、バイク温存→ラン追い上げでは表彰台はノーチャンスです。そのつもりでかなり強化してきました。そして結果は・・・バイク中盤からガンガンアタックをかけ過ぎたためか、後半に大失速、ランでは途中から歩いてしまい、年代114位という結果に終わってしまいました。全く後悔は無く、サバサバした感情だったのですが、帰国後に悔しさがこみ上げてきました。以前のハンガーノックのように体に異変が起きたわけでもないのに、ランで歩いてしまったことへの後悔です。またしても基本中の基本を思い知らされたわけです。
また、アイアンマンという競技は、その特質上、「一発当たる」ということはありえないことを再認識しました。高いレベルの実力を備え、それをいかにレースで均等に出し続け、トータルで速く走るか。う~ん、難しい。まだまだ未熟です。
12年ハワイ終了後からは、フリーランスとしての仕事を本格化し、以前と同じような生活ペースに戻っていきました。13年はアイアンマンケアンズで年代2位となり、ハワイに出場はしたものの、昨年でかなりやりきった感があり、特に明確な目標もなくレースに臨みました。そして、冒頭に記したようなレース結果となったのです。

以上で、5つのエイジグループの旅が終わりました。振り返ると、実の多くの方々にお世話になり、刺激を受けながら、あっという間の24年でした。みなさんに感謝です。ありがとうございます。
さて、そろそろエンディングにしないといけません。
これだけ長くやってると、よく次のような質問をされ、最近はこう答えてます。
Q.あなたにとって何?→A.自己満足。
Q.ストイックな生活されてるんですよね?→A.いいえ、全く。
Q.長く続ける秘訣は?→A.自分がやりたいことしかやらない。
要するに、’気の向くまま’という感じでしょうか。
自分は、トライアスロン、特にアイアンマンは、「究極の積み上げの遊び」だと思います(もちろん、他にはもっとすごい種目があると思いますが)。三種目もやらなくてはならない、コース、コンディションも様々で距離も長いので、実際に練習で同じことができません。なので、「積み上げ方」が無限にあるし、底知れないものです。自分は、ちょっとづつ工夫しながら、これまでに書いたような色々な経験から学び、積み上げてきました。但し、仕事や睡眠時間を無理やり削ったり、体調悪かったり怪我しているのに我慢して練習、そういうのは一切やりません。多分、そういう生活を送っていると誤解されてると思いますけどね(笑)。プロじゃないですから。だから故障もあまりしていません。
リクルート退職後の半年間だけは、トライアスロン優先の生活を実際にやってみましたが、自分は、これまでの2割増しくらいが精一杯でしたね。体力、モチベーション両面で。「もっと時間があったらもっと強くなれるのに」とボヤいているみなさん、色んなことをやりくりしながら取り組むからこそ、集中力が高くいいトレーニングができるのではないかと思いますよ。今の環境でできることをまずやりましょう!(説教臭くて恐縮です)
一方で、最近気になってるのは、「短期間に、急に、積み上げたがる人」が多過ぎるのではということです。トライアスロンスクールなどが増えてチャレンジしやすくなったことや、エントリー方法がWEBで早いもの勝ち制になってきたことが影響しているのだと思います。実績も無いのに、いきなりアイアンマンに出られる、出るというのはどれだけ危険なことか、また勿体無いことだと感じますね。
さて、来年からは6つ目のエイジグループ50-54に入ります。ハワイのスイムで感じた「面倒くさ、飽きた」感はどうなってしまうのでしょうか?この振り返りでモチベーションが上がった感じも特にないです。まあ、気が向きゃ一生懸命やるでしょう。
但し、これまでと違うのは、(普通ならば)5年の間でタイムのピークを迎え、下降線に入っていくことです。TRIONの先輩達は加齢の常識を覆しそうな勢いではありますが、そうなった時に、自分がどんな気持ちになり、どう遊ぶのか?スパッとやめてしまうか?・・・どっちの可能性もあります。そして、楽しみです。これからも、どうぞよろしくお願いします!
<予告>
これから、TRIONの「ハワイ常連おっさん軍団」の’トライアスロン履歴書’がリレー型式で続いていきますので、お楽しみに!次は、私のトライアスロンへのキッカケを作って頂いた師匠=御大の「履歴書」がアップされる予定です。
あ~やっとこれで年が越せます。
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